かなしいかな

夫婦間も、友人間も、仕事場においても、他人に期待しないというのが、一番、気持ちが平らかでいられる秘訣なのかもしらん。でも、これってかなしいことだ。さみしいことだ。『そういうもんだ』と想えるようになって、それが良いことなのかどうなのか、まだわからん。

「素直でない」と書いて

後で文章を読み返してみて、面倒な書き方をしているなと思ってから、いやむしろ、こういう風に言葉を並べたいんだな、と自分の欲求に気付いた。普段の生活の中では、なかなか出来ない言葉の使い方。バカの一つ覚え的に、簡潔明瞭であること、例のホウレンソウ(報連相)の原則みたいなものが、大事だと思っているのだ、普段は。でも、整えられた言葉からは、抜け落ちてしまっている「何か」がある。そりゃそうだ、整えるってのはそういうことだから。書けども書けども、話せども話せども、発した言葉がどうも上滑りしているような、自分の言葉だと感じられないという感覚は、この「何か」が言葉と供になかったためではないか、とそんなことを思った。

かく言う私は

素直な性格ではない。天邪鬼だとか、ねじまがった性格だとしてしまえば、先に書いた自己言及のパラドックスから逃れられそうなものだけれど、パラドックス的表現の割り切れなさこそが「素直でない」様それ自体を表現しているようで、やはり「素直でない」を表明するのに「素直でない」に勝るものは無い。

「私は素直ではない」

と言ってしまうのは、「私は嘘つきだ」と同じ自己言及のパラドックスだ。言えること自体が「素直さ」の表明になるので。そもそも「素直でない」人は、自分が「素直でない」ことを「素直に」認めることが出来ない。だから、驚くべきことに「あなたは素直じゃ無いね」と指摘されたり、自分に対して「自分は素直な人間か?」と問いかけた際、「いやいや、素直なところもある」と否定を経由して自分が(少なくとも部分的には)「素直である」と認めたりする。

大学を卒業する直前のことだったと思う

誰かのアパートに集まって酒を飲んでいる席で「人間は表現せずにはいられない存在だから」と友人が口にした。彼は就職活動をせず、アルバイトをしながら音楽活動を続けるつもりでいた人だけれども、気張った『青年の主張!』のようなものとして発したのではない。おそらく、私と彼ではない他の友人とが、具体的な曲だか小説だか創作物の話をしていた流れの中で、唐突に言ったのだった。時々、常套句に過ぎ、生真面目な顔で話すと馬鹿みたいに聞こえる言葉を、会話の筋と外れるか外れないかというタイミングで投入するという言葉遊びをする人で、上手いもんだよなあ、といつも私は関心させられていた。長年付き合った彼女と別れた際、その理由を「音楽性の違い」と言っていたのも良く覚えている。

暖簾に腕押し

で怪我をするのは、押した方。倒れちゃうからね。

 提案する気持ちを削ぐ上司のこと。押さないままだと状況は変わらないか、悪化するばかり。でも、もう、良いか、と思ってしまう自分にも若干の嫌悪感。

 さて。

仕事のためでなく、事務連絡のためでなく。

「何」をというテーマや対象も、「どのように」という語り口や方法を意識することもなく、ただただ、書くということを一番の目的としてキーボードを叩いていて、ぎこちない。指の動きも出てくるコトバもぎこちない。そして、そのぎこちなさが心地よい。読んでいた小説の語り口に乗せられて、日々のことを記録していた頃と違う感触。久しぶりのことで頭と指との回路がか細くなっていることが原因かもしらん。でも、願望として、他人の語り口が剥がれて、自分の書き言葉のリズムがむき出しになった結果としての、ぎこちなさであってくれれば良いのになとは思う。出来るだけ出来るだけ、軽く、柔らかく、しゃちほこばらず。